昭和47年12月29日 朝の御理解
御理解 第80節
「年寄りを大切にせよ。人間は自分の考えで先へ生まれてきたのではない。みな、神のおかげで生まれてきたので、早く生まれた者ほど世のために働きをたくさんしておる道理であるから、年寄りを敬うのぞ。若い者でも役に立つ人はなんとなく人が敬うようになるが、不都合、不行き届きが重なれば、敬うてくれぬようになる。信心する者は、よう心がけておるがよい。」
年寄りを大切にと言う事は、敬うと言う事なんですね。例えば敬うと言う事は、年寄りを尊敬すると言う事ですから、年寄りに言わば喜んでもらうと言う事です。只年寄りが形の上で楽になられるように、楽になるようにと言うて色んな施設なんかがでけたりいたしますね。養老院とか、または年を取った人たちに対する、施設がでけたり、まあいかにもそれは形の上では大事にする事ですけれども、ほんとに年寄りの人たちが喜ぶ、安心して生きていけれるような、世の中がでけると言う事は。
何というても肉親の者が側で、見てあげる、親切にしてあげる、敬ってあげるということ以外にはないと思う。いかにも形の上では大事にしておるようであって、設備は立派にでけておるけれども、言わば可愛い子供やら孫やらに、思う時に会えもしないと言った様な、言うならば、ならやまぶしこうではないですけれども、姥捨て山同然のような考え方で、そしてどのように施設をしてあげても、それは本当の事喜んで貰うと言う事には、神様の機感に、お心に叶うような事にはならないとこう。
あちらの、デンマークとかスウェーデンあたりは、随分その年寄りの施設が行き届いた、徹底して行き届いておるそうですけれども、年寄りのそうした自殺者の多い事でも又、世界デンマークの事は世界一だと言われておるんですね。そんなに年寄りを大事にして、言うなら、むぞがり殺しをしておるのかと言うとそうでもない。所謂若い者と年寄りとを、何とはなしに断絶と。そういうものを最近の言葉で言うと。
のような形を取っていかに形の上で、どんなよい設備をしてやっても、食べる事に生きる事に不自由をさせないと言うてもです。心の伴わない言わば大切にするというのであっては、かえって年寄りをそういう自殺に追いやるような事になりかねないのですから、形の事ではない。勿論形もですけれども、先ずは心の問題です。その心が形に現れてくるというものでなからなければ、年寄りを大切にすると言う事でも、敬うと言う事でもないと思うです。しかも信心するものはよう心がけておるがよいと。
何故そういう所を心掛けなければならないかと言うとね、そういう心掛けを持つ言うならば、そう言う心掛けを持たないと言う事は、神の機感に叶わんからです。だからそれと反対にそういう心掛けの人は神の機感に叶う事になるからなんです。今度の選挙に立たれた人達が、もうどの人でも言うておる事は、年寄りの施設を良くするとか、無料でね、病院に掛られる様にするとかと、こうみんなで言ってるですね。もう一人残らず言っておる、これだけは。有難いようであって、有難くない事だとあたくしは思うとる。
昨日あたくしは、テレビを見せて頂いておりましたら、あの若い青年層の方達を中心にして、若い代議士の方達やら、それやらまあ色んな有名人やら、又は町のおば様連中というグループが幾つも別れて、結局はあのそうではなかったらしいですけれども、政治の事についての討論があっておりました。もう若い者は年寄りをばかにしたような言い方をする、年寄りは「今の若いものが」と言う。
それでいてなら政治の事等に、そのそれぞれの理想というものを話を聞いておると、どの人もみんな、成程最もだと言う事を言っておる。今度一番若い25歳で当選したと言う人がおりますね。もうその人なんかが話しておる事を聞いておったら、あたくしどもが聞いては成程最もだと言う話をしてましたけれども、若い層にはもうまあこの辺の言葉で言うならもう、うんがうんがうんがちゅうごたる言葉で、まあその悪く言うておりました。「お前そげな事言うて恥ずかしくなかか」と言うてからやってるんですね。
それはお父さんが沢山お金を持った方らしいですね。だから親父のおかげで威光でお前が上がったんじゃないか。そんな事で恥ずかしくないかっち。て言うと恥ずかしどころが返ってもう言うなら、喜ばしい事だし、言うならば親父が沢山な金を持っておると言う事は恥ずかしい事じゃないですよね。けれどもそう言う様な言い方をする。例えば終戦後に生まれた。25歳だそうですからね。
それで様々な難儀な所を日本も通って来たけれども、今日本当にこういうまあ結構な、結構なと言うが、まあ衣食住にしてもですね、あの十分に頂けれる、着れれる住まわれると言う様な、まあその時世を苦しい中から創った人達は、現在の40代50代の人だと。だからそういう人達の意見を尊重して、その人達に感謝もして、そして良い所を頂いて、それでもまだ尚いけない所があるなら、そこを改めていかなければならんと、言う様な話をされたんです。
ですからほんとにその、こういうその混沌とした時代だと言うてその悲しい、悲観的な事ばっかり言うけれども、実際は食べるに事欠く様な人も段々なくなって来たし、もうそれこそ全ての点に、そのお互いの生活と言うものも水準が高くなった。それは今の40代50代の人のまあ骨折りのおかげだとこう言うわけなんです。若い人に珍しい事言う訳です。いやあたしは成程と思うたけれども、若い人達はそれが気に入らん訳なんですね。共産党の人も色々話をしておりました。
是はもう共産党でなからなけばいけんというまあ宣伝をしておる人もあります。それぞれに言うておる事をあたしは聞かせて頂いて、どれも是も成程ほんとあんたが言う事も本当ですね、あんたの言う事も本当ですね、間違っておりませんと言う様な事ばっかりなのですけれども、それでは幸せにはなれない。私はそれを聞かせて頂いて、私がもしあそこに、まあ出席していたら、私がどうか言わんならんと言うなら、皆んなの言うておる事が本当だと、やっぱ実際実感ですからそう言うでしょう。
けれどもそれでは人間は幸せにはなれない。言わば責め合うと言う様な事では、討論しあうと言う事で、良いものが生まれてくると言う事は有り得ないです。いかにもより良いいいものが生まれて来るために話し合いをするとか、というのはええけれども、そのやはり世の中が良くなるためにはですね。いや良くなる事の為に皆んなが、一生懸命話をしておる。それは例えば、共産主義であろうがね、資本主義であろうがです、その思想と言うものは、人間が幸福になる事の為に考え出された思想なんです。
だから共産党が良いの、何々が悪いのと言う事はない。もうねそのおんその根本の所は、人間が幸せになる事の為にでけたのである。言うなら例えば年寄りを大事にする施設でもそうですね。ほんとは年寄りを大事に大切にするという事の為に、色んな完備した施設がでけた。けれどもです所謂形の事であって、心がとものうてないと言う事。私はどうでも思わせて頂くのに、黙って治めるという事の素晴らしい事をですね、私共はやっぱり広めていく以外にはないなと。
只皆んなが黙っておると言う事ではなくてですね、所謂真の信心をさせて頂く事によって黙って治めて行けれる事がどんなに素晴らしい事かと言う体験をしていく事以外にはない。私は最近ここもう4、5日掛りで、古事記の世界という、本を読ませて頂いております。日本の所謂日本の精神ですね、言うなら。その一番あの素晴らしい中心になっておるというのは、日本という国は神代の時代からですね、「事は是せぬ国」だと言っておるのですね、「事は是せぬ」。所謂討論をしないと言うふうにね。
言うならば共産の党の人達が言っておる思想も、言うならば資本主義の人達が言っておる思想もです、人間が幸せになる事の為に言うなら思索から思索し、そういう思索から生まれた思想であるけれども、それで人間が幸福にはなれないという事実をです、ね、それを実際に行うておる国々の様子と言うものを見れば分かるのです。どうでも私共が思うのは、結局信心の世界、所謂和賀心時代と言うものが広がっていかなければです、そこが根本で人を大事にするも有り難い、年寄りを言うなら敬うのも有り難い。
信心させて頂く者の心掛けとして、是は私が頂いたみ教えですけれども、「年寄り子供を大事にする人は神様に好かれる」と言う御教えを頂いた。言うなら力のない者弱い者、そういう例えば人達を、もう大事にしなければおられない、所謂親切の心。親が子を思う様な切なる心を持って大切にする、そういう心を持って敬う。そういう心掛けが信心する者には必要だとこう、信心の根本は親孝行だと極言する人すらある位です。
ですからどんなに素晴らしい言うなら事が分かったり、信心修行がでけておってもです、親を粗末にする様な人がほんとのおかげを受けられる筈は、是はもう絶対にありませんね。根本ですから。そう言う様な、例えば親孝行な心でです、年寄りを大事にする。そういう心掛け、そういう心掛けが神様の機感に叶う。信心させて頂く者はよう心掛けておくが良いというのはそういう事だと。形の事でただ「年寄りの日」と言った様な日だけにプレゼントしたり、なでたりさすったりしてあげただけではね。
もうこんなに悲しい事はないだろうと思うです、年寄りにしては。そりゃあ嬉しい喜びますよね。孫から送って来たとか子供がこんな立派なもん買うてくれたと言うのですから。けれどもそういう例えば心掛けというものが、何時もなからなければいけないと。年寄りの日だけ年寄りを大事にすると言った様な事では、寂しい悲しい限りである。常日頃がです、そういう心掛けを持たなければならない。そういう心掛けが神の機感に叶う。そこでです、ここで世のお役に立ってきた道理であるからと。
何十年間ね70、今80という長生きをした人達は、それだけ世のお役に立ってきた事だと。そりゃ特別取り上げてどうと言う事もなかったと。言う様な人であってもです、自分の考えでこの世に早く出てきたというのではない、神様のおかげでこの世に生まれて来たのであるから。神のおかげで生まれて来たので、早く生まれて生まれた者ほど世の為に働きを沢山しておるという事。そういう道理だからとこう。そこで世のお役に立った者、立つ者は何とはなしに、若い者でも人に大事にされる人に敬われる様になる。
そこで信心をさせて頂く者は、本当に私共が世のお役に立たせて頂くという心掛けを、いつも持っておかなければならないと言う事であります。自分だけ人に迷惑さえかけなければ良いという生き方ではなくてです、自分の頂いておる有難いものがあるとするなら、それを分け合うていくという生き方。世のお役に立つという生き方、世のお役に立つと言う世のお役に立たせて頂きたいという願いを持つ。けれどもそういう願いを切実に持っておる人というのは非常に少ないですね。信心をさせて頂いておっても只自分一身上の事を、又は自分一家の事だけを願うだけに信心をしておるというのが多い。
そういう意味で、最近合楽で言われておる、五つの願いというものは、素晴らしい事だと思いますね。どうぞ健康のおかげを頂かせて下さい、どうぞ家庭円満のおかげを頂かせて下さい、どうぞ子孫繁盛家繁盛のおかげを頂かせて下さい。そういう人間の切実な願いを持たせて頂く、その向こうにです、そういうおかげを頂いてです、真実の御用、真の御用にお使い回しを頂きますようにと言う事が、世のお役に立たせて頂く事のためにという事になるのです。
ですからその実感と言うものがです、本当にでけなければこの3つの私は願いは、いわゆる真の信心と言う事になってこない。どんなに子孫繁盛家繁盛を願っても、どんなに体の丈夫を願っても家庭円満を願っても、ただ言うならマイホーム的なおかげを頂く事のためだけに、それが一歩も外へ出てないとするならです。その為には神様はおかげ下さらんですよ。世のお役に立たせて頂きたいと言う事が、願いであってのこの3つの願いなんです。健康の体を持って、神様にお喜び頂けるような御用。
世の為人の為にもなるようなお役に立ちたい。沢山な財産も頂きたい、家繁盛子孫繁盛のおかげも頂きたい。その繁盛を持ってです、真実の御用、言うなら今日の御理解から言うなら世のお役に立たせて頂く事の為に、沢山なお金も儲からして下さいと言うのです。だから私はこの5つの願いという事が、ほんとに願われ成就するという事は、真の信心が成就する事だと言っておるわけです。ただその3つの願いを願う事が、成程それには条件が付いておる。家庭円満のおかげを頂く為には人を責めない。
体の丈夫のおかげを頂く事の為には大酒大食、不摂生な事はしない。家繁盛子孫繁盛のおかげを願うからには決して無駄使いなどは致しません。仕事に忠実にならせて頂きますという、言うならばそれに対する誓いがありますけれども、そういう誓いをさせて頂いてでもこの3つのおかげがどうでも頂きたい。それはなぜかと世のお役に立つ事の為に頂きたいと言う事になってくる時に、初めて是が真の信心だと言う事になるのです。
ですからそこの所が世のお役に立ちたいからの願いというものが、すっきりしてこなければ、おかげにはならんです。でなかったら真の信心にもとるね。それは神様の願いがです、どうぞ氏子信心しておかげを受けてくれよと言っておられる、ね、そのおかげを受けてくれよと言う事は、儲けだしてくれよ健康になってくれよ、家庭円満であってくれよと言う事とおかげを受けてくれよと言う事なんです。お前がおかげを受けて世のお役にも立たせて貰えよと、ね。
おかげを頂いたらそういう言うなら和賀心の世界というものを広げていってくれよという事なんです。家庭円満のおかげを頂いたら、隣りも家庭円満のおかげを頂かれるように、頼んででも導いてくれよと。あなたの知っておる限りの所へ、自分が助かっていきよる事を話して、頼んででも信心をしてもらってくれよ、おかげを受けてくれよと言うのはそういう事だと私は思うんです。ただ儲けだしてくれよ健康になってくれよ、家庭円満の、おかげを頂いてくれよというだけの、おかげじゃないです。
そのおかげで、おかげを受けてくれよというのです、神の頼みなんです。だから神様の頼みに答える事だから、私は真の信心だといっておるわけです。皆さんここの所がスッキリしなかったらね、私はあのおかげにはならないと思うですね。ただ自分が言うなら老後に楽をしたい為にです財産を頂く、作っておかなければならないとか頂いとかなければならないという事だけであっては。健康のおかげも有り難い、家庭円満のおかげも頂きたいというだけなら、今の言葉で言うただマイホーム的なおかげに過ぎません。
自分の周囲の縁のある人にです、その事が伝えられ、そういう家庭円満の所帯が家庭がです、段々増えて行く段々健康の人が増えて行く、家繁盛子孫繁盛して行く家が、愈々増えて行くそこにお国が富んで行く、裕福なお国が出来るわけです。私共の家庭が裕福になるそういう裕福な家庭が、段々広げられて行くという事がです神の頼みなんです。神の願いなんですを信心しておかげを受けてくれよとこう仰っておる。
ただ自分方だけ商売繁盛すればそればよかっちゅうのは、ためにですどうぞ家の商売繁盛して下さい、その代わりもう始末倹約致します、そのためには商売に熱心になりますと言うだけであったら、それは尻切れトンボの願いです。願いというものはどこまでも神の願い、神の心まで通うて行く願いにならなければ、私はおかげは頂けません。世のお役に立ちたい立ちたい、お役に立ちたい立ちたいの一念がです、この3つの願いと言うことになってこなければ。
ならその根本になるものはです、言うなら親孝行その根本になるものはです、年より子供を大切にする。言うならしなければおられないほどしの心が、信心させて頂くものの心掛けであり、いやそれが根本になるもの。どんなに家繁盛、今の5つの願いをさせて頂いても、親をおろそかにする、年寄りを粗末に扱うような心掛けの人で、おかげが成就するはずはない。言うなら信心させて頂くものの根本的な心掛けである。
そういう時代になってです、言うならあらゆる施設が完備してくると言うのであったらです、そこには言うならこここそ年寄りの世界だ、極楽の世界だ、ここが年寄りの極楽の世界だと言うことになるのですね。そういう年寄りを敬わずにはおられない、親孝行はせずにはおられないと言うその心がです、立派な隠居所もよかろう、立派なお布団も良かろう、おいしい柔らかい食べ物もよかろう。
その根本を抜きにしてです、例えばどのように素晴らしい、共産主義が素晴らしいと言うても、社会主義が素晴らしいと言うてもです、民主主義が素晴らしいと言うてもです、それでは決して人間は、その思想がね、行き渡ったところで人間の幸せはありません。心が欠けておるからです、その心と言うのは今日は私は、年寄りを大事にする心、年寄りを敬うような心。そういう心がです、行き渡った世の中にならなければ、年寄りの幸せも言うならば人間の幸せは有り得ないと私は思う。
信心のある者はよう心掛けておくが良いと。心掛けなん信心させて頂く者の心掛けなんです。そこでなら私共若い者もです、世のお役に立たせて頂くという事、そのことが切に願われる。世のお役に立ちたい立ちたい、神様のお喜び頂ける、御用に立ちたい立ちたい。これが真実の願いなんです真実の御用なのです、真実の御用がほんとにできれる事の為にです123、3つの願いと言うものが、どうでも成就のおかげを頂かなければならない。ただ3つの願いが成就することの為に。
その誓いの信心が出来たところでです、後の2つのね、神願成就のことの為に、真実の御用の事のためにと言う後の2つの、願いというものがです、自分のものにならない限りです、それは我情我欲の願いということになります。我情我欲の願いであって、それが真の信心と言えません。そのへんはだから紙一重なのです、ですからその紙一重のところをです、ほんとに世のお役に立ちたい。
世のお役に立ちたいの一念が、この3つの願いにすっきりして来るところまで行かなければ、この5つの願いの言わばねらいと言うか、この成就のおかげを頂かなければ、どうでもならんと言う、そのほんとの意味での迫力と言うかね、と言った様なものは出て来ないと思う。もうこの事を願わせて頂いておると、もうほんとにますます力が湧いて来るですね、これは私それを体験します。
ただです自分の家が所謂こっとりとも言わん円満であるだけ。ただ自分の家が段々繁盛して行く、自分の家がみんな健康である。願っておかげ頂いたらもうそこで腰かけるです。けれどもその向こうに、そういうおかげを頂いてそれをひっさげて、和賀心時代をつくって行こう。そういうおかげをひっさげて世のお役に立たせて頂こうと言う願いが切実になるからです、もう限りなく願わなければおられなくなって来るのです。
一万円よりも一千万円、1千万よりも一億円のです、財産を頂かなければならなくなって来るのです。世のお役に立ちたいの一念が、そこまで高められて来る時に初めてそういう、真の信心という事が言えます。なら紙一重、手前の方、ただマイホーム的なおかげの事のために願うとじゃったら、これはもう実に私は低級な信心だと思うです。願いの言葉は同じであっても、ただ自分方さえよかりゃよか。繁盛すりゃよかと言うような考え方で、例え言うなら人を責めません大酒大食もしません始末倹約もいたします。
仕事に忠実になりますと言うならです。それはただ人間の我情我欲、を述べておるだけに過ぎません。そういうおかげを頂いて、真実の御用が出来ますことの為に、最後の2つのところに、ほんとの力というものは入れられるところのね、信心が出来て来る。そういう信心と、でないそのマイホーム的な信心と言うのは、もう紙一重なんです。だから紙一重のところを私共が分らせてもらう、頂かせてもらって初めてそれが、真の信心という事が言えるのです。
ならその、根本になるものはです、年寄りを大切にする、敬うと言ったような、心掛けなんです。親に孝行しなければおられない、年寄りに、喜んでもらわなければおられないと言う、そういう、心掛けをもって、今合楽で言われておる、5つの願い、そして世のお役に立ちたいと言う、念願が、成就して行く事をです、真の信心が成就して行くという事になるのです。
どうぞ。